2008年05月25日

群衆の叡智サミット(WOCS)聴講してきました。

先週5/21、TechStyle社の主催で開催された「群衆の叡智サミット2008 - (WOCS2008Spring)」を聴講してきました。
http://techstyle.jp/wocs/2008spring/

UStreamでリアルタイム中継されたビデオが閲覧できます。
http://www.ustream.tv/channel/wocs2008spring
行きたくても仕事で、或いは遠くて行けなかった人は多いと思うので、これは嬉しいですね。

さて、群衆の叡智。いかにもキャッチーな言葉です。それ故に、私自身は正直言って、この言葉自体は、眉に唾つけて見ているところがありまして、スロウィッキーさんの原著(Wisdom of Crowds)も訳書(「みんなの意見」は案外正しい)も読んでいないモグリです。で、今回のWOCSには、「一体みんな、Wisdom Of Crowdsってどういう意味で使ってるの?」という疑問を持って参加しました。

たぶん、WOCの議論の中でキーとされているのは、群衆の叡智が機能するために満たされているべき4つの条件、なのでしょう。
1.意見の多様性
2.独立性(他者の考えに左右されないこと)
3.分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)
4.集約性(個々人の意見を集約して集団の一つの判断にするメカニズムの存在)

これに対する私の感想は、少なくとも1〜3は何もWOCに限った話ではないだろう?ということ。そしてそれらを集約するメカニズムとして「専門家」という思考装置を用いる場合は、WOCという概念は適用されないのか?ということです。また、仮に正しい(らしい)答えを導くことのできる法則性を持ったアルゴリズムを発見できて、それを利用した集約メカニズムを構築としたとしましょう。・・・あれ?それって「専門家の叡智」じゃないの?と。

結局今回のWOCSではこの辺りの疑問は解消されないままでした。もっと突っ込んだ議論を聴きたいなぁ。

あと、折角聴衆とのインタラクティブ性を持とうとしていらっしゃるのですから、私のような者からも疑問を投げかけられるようにしていただければ良いな、と思います。
posted by kamicup at 18:28| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月29日

今まさに起きている社会の構造変化

もし貴方が時代に取り残されたくなければ、まあ良いから、これは見なくちゃ駄目だと思います。



この2つの作品は、ニコニコ動画というサービスを舞台に、才能あるユーザの分散型自発的コラボレーションによって生まれた作品です。まず楽曲が投稿され、それを見て触発された絵描きさんが挿絵やアニメーションを付加した上で再び投稿し、話題になっているのです。NHKの「みんなのうた」でそのまま放映しても全く文句なしのレベルに仕上がっています。

ちなみに、聴けば分かるかもしれませんが、歌っているのは同じ歌手です。と言っても人間が歌っているわけではなく、一万円台で買えるような一般向けの「VOC@LOID」というソフトウェアボーカル音源(簡単に言うと、歌う専用の音声合成ソフト)が、楽曲作者の打ち込んだメロディと歌詞の通りに発声しているのです。

それはともかく、これには凄い衝撃を感じます。たった二人の才能と、両者が持っているパソコンと、両者をつなぐインターネットだけで、これだけのレベルの作品が出来上がってしまうという事実が、こうも端的に目の前に示されたのですから。

オープンソースソフトウェアが世界を席巻しているのは皆さんご承知の通りですが、それはあくまで対象がソースコード(即ち単なるテキスト)という最も単純なデータであるが故に最初に広まっただけであり、今やその流れはソフトウェアに留まらず、すべての「ソフト」に拡大しつつある事が明快に示されているわけです。

(まあ、今までにも無かった現象というわけではなく、特に2ch界隈では時折観測することができました。が、今はとにかく勢いが違います。)

だからと言って、ソフト・コンテンツ産業が早晩潰れるなんて話にはなりませんが、確実に構造的変革を迫られることにはなるでしょう。じゃあハードは大丈夫かと言えば、もちろんそんなことはなく、ソフト面の構造変革によってより一層の変革が起こると考える方が自然です。誰であれ、この社会の変化の意味が見えなければ、時代に取り残される危険性は大いにあります。

ニコニコ動画なんてオタクの溜まり場・・・って思っている貴方、その考えを改めないとちょっとヤバいかもですよ。
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2007年10月04日

Appleは集合知の利用と昇華によって従来的競争原理の壁を崩した一例か

メーカ別という観点で見れば、Appleのシェアは大した物になってきた。

http://bcnranking.jp/news/0710/071003_8561.html
アップルがフルモデルチェンジして8月8日に発売した、液晶一体型のオールインワンパソコン「iMac」が好調だ。9月のデスクトップPC機種別ランキングでは、エントリーモデルの「MA876J/A」が1位を獲得。メーカー別シェアでも、過去1年間で最大の9.7%に達した。


WindowsとMacのOSとしての機能的な壁が消えゆく状況下にあって、ユーザから見ればもはやWin vs. Macの構図ではないと思う。戦場はユーザエクスペリエンスとブランド、特に唯一前者を自らコントロールできるAppleは、強い。

圧倒的な規模の経済によるコストメリットを武器にしてきたMicrosoftに対し、Appleはオープンソースという集合知の利用と昇華によってそれを乗り越えつつある。わずか数年前に下されたAppleの戦略転換を、市場は確かに評価している。競争原理が変わったということかな。
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2007年03月25日

論理的に思考するな。感覚的思考上で論理計算せよ。

↓これは同感。私自身もそう感じることがある。
論理的思考の放棄 - 登 大遊@筑波大学情報学類の SoftEther VPN 日記
だが、人間の感覚的思考機能の上でエミュレーションされた論理的処理機能は、所詮エミュレータ上のようなものなので、実マシン (人間本体) と比較すると、とても処理が遅い。オーバーヘッドが大きすぎるのである。あらゆる方式の処理を瞬時に同時実行することができる人間の頭脳がせっかくあるのに、論理的処理用の仮想環境を脳の中で構築し、その上で物事を考えるから、効率が悪くなる。

私はよく、人から「論理的だ」と言われるが、物事を論路的に考えることは、実は、あまりない。どうやら、感覚的あるいは直感的に考えると「論理的な」結果が出るらしい。論理的に考えることも、できないわけじゃないが、そうするといつも論理的感覚→論理的思考の変換オーバーヘッドの面倒に悩まされる。たぶん「論路的に思考する」ことと「感覚的思考上で論理計算する」ことは、脳の働かせ方が根本的に違うんだろうと思う。後者は条件反射に近いから早い。登氏の言は、前者の方法が無駄だということじゃないかな。でも、それはプログラミングという作業が自分自身で完結する場合にだけ通用すること。

ちなみに私も自分で使うツールを作る為に時折プログラミングをするが、所詮一人で完結するものなので、ほぼ最初のイメージだけで最後まで完成させる。一人でやってる範囲なら論理的な説明や仕様なんて書く意味はない。ただ、他人に説明可能な論理的記述に落とす必要がある場面が、実際には多くある。で、それをするには大きなオーバーヘッドが生じるから、チームでプログラミングをする場合には効率が落ちる。それだけの話じゃないかな。

ちなみに、一人で完結する場合にもコーディングする以上、どこかで論理的な記述に変換が発生する筈だとも思えるが、実際はそうじゃない。慣れさえすればパターン化された抽象的記憶から自動的に、辞書を引くように、ひたすら単純作業で完結する。
キーボードを通じてコンピュータに物理的に入力する必要がある以上、論理的思考は完全にゼロということにはできないけれども、可能な限りゼロに近づける、これがコツです

これは、そういう感覚じゃないかと思う。

ちなみに、こういう感覚を誰もが実感できるかというと、それも難しいとも思う。

例えば武道においても、大人と子供じゃ条件反射を身につけるプロセスが逆なんじゃないかと思うことがある。大人の脳は既に普段の生活に最適化されているから、新たな条件反射を身につけるにはひたすら反復練習して脳神経回路を新しく構成しなくちゃならない。でも子供は違う。子供の脳は最適化が進んでおらず、いかなる反射行動の可能性を捨て去っていない、いわば反射の塊みたいなもの。彼らが条件反射を身につける過程は、時間を経るに従って、不必要な反射機能を捨ててゆくように見える。(不要な神経回路が自壊するスピードは一定なので、時間はかかるんだけどね。)

つまり、こういう感覚は脳が最適化される以前に身につけない限り理解できないのかもしれないな、と。
posted by kamicup at 11:15| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月18日

アイデアメモ - 道路情報2.0

定点ウェブカメラによる一般道路の常時実況中継。

慢性的に渋滞する道路に設置すれば、近隣の道路利用者のリピート需要が見込め、地域性を生かした広告掲載で収益を出せる可能性がある。道路沿い民家であれば可能ではあるが、設備構築の知識(比率大)、設備投資(軽微)、集客PR(投資を伴うため限界あり)が課題になる。

ビジネスモデル化の大枠


  • 民家等に設置場所提供者を募り、インセンティブとして広告収益の一部を還元する。(当初は候補地を調査し積極的に設置協力を仰ぐ必要有り。)

  • 設備構築、集客PR、広告募集など纏めて面倒を見る。

  • 個々人がバラバラに運営するより、統一的に仕組みを作る方がサービスの価値の向上が容易になる。例えばAPIを提供して地図サービスやカーナビ等とのマッシュアップを可能にする、など。

  • 自力で設備構築・設置できる人には、それを統一的な仕組みの中に組み入れるためのAPIも提供する。

posted by kamicup at 23:19| 兵庫 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月05日

IT技術とコンテンツビジネス

私、実は10年以上前からホームページを作って公開していました。まだ大手のPC-VANがインターネット方式に転換しつつあった時期の事ですから、一般消費者としてはかなり早くからインターネットに飛びついたクチだったと思います。

勿論、その頃に作ったコンテンツは殆どが消滅しているのですが、幾度かの引っ越しを経て生き残っていて、それどころか時を経る毎に徐々にアクセス数が伸びているコンテンツがあったりします。

その傾向が顕著なのが、このページ。
なめくじの溶けるわけ
ページのタイトルがわざわざ英語(ていうか間違ってるし)なところなどは、タイトルに日本語文字(2バイト文字)を入れるのが御法度だった当時の名残です。

内容は単なる蘊蓄で、今となっては何故こんなコンテンツを作ったのかも思い出せません。まだ全文検索エンジンが無い頃(Yahoo!Japanは有ったが、あくまで登録制のディレクトリサービスだった)ですから、当時は人目に触れる機会が低く、仮にこの情報を求める人がいたとしても、このコンテンツにたどり着くことはできなかった筈です。つまり当時このコンテンツは、この情報を探してやってくる人に向けて書かれた訳ではありませんでしたし、偶然これを見た人にとっても、ほとんど何の価値のないコンテンツだったでしょう。

ところが10年が過ぎ、今になってこれを見に来る人達が居るのは、Googleを筆頭とする全文検索エンジンサービスの御陰に他なりません。10年前には無価値だったコンテンツが、検索技術によって掘り起こされ、知らないウチに、適切な消費者へ価値を提供していたわけです。

で、それ自体はとるに足らない事なのですが、これをもっと抽象的に捉えれば「コンテンツビジネスは新たなコンテンツを生み出すだけが唯一、必要充分の手法ではない」という考えに至ります。コンテンツ処理技術の向上は、今は無価値な(と思える)コンテンツを、ある時突然価値ある物に変貌させます。YouTubeを買収したGoogleは、おそらくそれを誰よりもよく理解して戦略を立て、着実に歩を進めていくでしょう。日本がコンテンツビジネスで「本当に」強くなるためには、今の手法からの飛躍が必要だと思います。
posted by kamicup at 21:12| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月25日

スポーツ・レクリエーション VS 学習塾

このネタの続きです。

子供一人当たりスポーツ・レクリエーション及び学習塾にかける費用に興味が
沸いたので、文部科学省の調査報告を見てみました。(現実逃避のため)

平成16年度「子どもの学習費調査」
二年毎の統計ですが、18年度は未発表のようで、これが最新です。

平成18年度学校基本調査(確定値)
全国生徒数などの基本的データはこちらにあります。

まず、ターゲットになりそうな層を絞り込むため、「その他の学校外活動費」の「スポ・レク活動」を見てみます。おおかた想像通り小学校で多く、小六から中三にかけて徐々に減少し、高一でガクンと減っています。年間の平均金額は、小一から小五までは約44,400円、小六で約33,200円、中学三年間では約21,300円です。中三でもっと落ちるかと思っていましたが、そうでもない様子なので、小・中学校生全般をターゲットとしても良さそうです。

次に「学習塾費」について見ると、小一の約20,000円から中三の約250,000円まで、ほぼ連続的に増えています。学習塾費がスポ・レク活動費を上回るのは小四以降ですので、このあたりが、スポ・レクよりも塾の方が優先され始める時期と見てよいかもしれません。

普通にスポチャン教室をやっている場合、学業優先になる小4以降の生徒を勧誘するのは時期を追うごとに難しくなるでしょう。指導側としては、身体的に充実してくるこの時期の生徒を取り込みたいですから、マジョリティの親や生徒の目がスポ・レクから塾に映るとき、その目線の先で待ちかまえて再度アピールすることが有効なのでは無いかと思うわけです。

ちなみに「学習塾費の金額分布」を見ると、小学校では41.3%、公立中学校では74.4%、私立中学校では55.1%の児童・生徒が、学習塾費に1円以上を支出しており、これらの集団の平均金額は、小学校では約140,000円、中学校では約230,000円。H16年度はH14年度より7%〜15%も増加しており、学習塾への支出の増加傾向が良くわかります。これだけの額を払うことを惜しまない層は顧客として魅力的ですから、そこに向けてアピールしない手はないと思います。
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2006年12月23日

スポチャンはビジネスに成り得るか

皆さんスポチャンで飯を食うのは無理と仰るが、そう決めてかかるのはどうだろうか。一瞬考えただけだが、例えば学習塾とタイアップするなど、やりかた次第で勝算はあると思うのだが。

たとえば学習塾とタイアップするココロ

少子化で子供相手のビジネスは縮小するどころか、親が一人の子供にかける金額は増加の一途。親の教育熱は相変わらず高く、学習塾にかける金額を惜しまない。つまり学習塾のカリキュラムのオプションとして展開できれば、有料でも比較的容易に生徒を集められる可能性が高い。

学習塾にとっては、子供の絶対数が減る社会環境下で生徒を増やすことは難しく、生徒一人当たりの授業料をあげるため、差別化を図りサービスの充実を指向する必要がある。マンツーマン指導に乗り出す学習塾が増えているのも、そのためだ。その中で、古くて新らしい付加価値として「文武両道」を打ち出し、武道としてのスポーツチャンバラ指導を提供することは選択肢としてあり得るのではないか。

生徒とその親へも訴求できると思う。昨今の凶悪犯罪増加に対して、護身道としてのスポーツチャンバラは犯罪からの身の守り方(もちろん刃物の怖さや逃げる事の重要性を含めて)を教えることができるし、学校でのいじめ問題に対しても、自分の子供を「いじめない・いじめられない人間にしたい」という親心に答えることができる。いくら勉強ができても、周りからのいじめで潰されたら終わりだ。それに対抗するチカラを子供に持たせたいと思うのは自然だろう。それでいて、スポチャンなら如何にも「武道」な堅すぎる印象、あるいは稽古による怪我の心配はほとんど抱かせない。
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2006年12月21日

Wii優勢は当然

任天堂はDSで確実に未開拓市場を開発したし、Wiiでもその新しい市場を攻めているが、ソニーとマイクロソフトは、任天堂が折角リスクを取って開拓した市場を無視した。後者2社はパイの取り合いをしているつもりかもしれないが、そんな構図は最初から成立していない。2社のその姿勢が変わらない限り勝負は見えている、と思う。

このアンケート結果もそれを如実に表している。
新ゲーム機3機種の購入意向、女性にも人気の「Wii」がトップ--マクロミル調べ
性・年代別に購入意向を比較すると、PS3は男性で33%、女性では15%に留まっているのに対して、Wiiの購入意向は男性で40%、女性でも35%となっており、女性も男性に匹敵する購入意向があることが分かった。さらに、女性では年代が上がるほど購入意向が高くなっている点も特徴となっている。

年代の高い女性層というのは、まず間違いなく、DSで新たに取り込んだ市場だろう。DSというステップがなかったならば、いくらWiiのCMがオモシロそうに見えても、彼女たちにとっては別世界のオモチャであって、購入意向はさして高まらなかったと思う。私のまわりを見る限り、DSが女性にも受け入れられたのは、新機軸のソフトだけでなく、ハードを含めたスタイルが「たまごっち世代」=携帯ゲーム機に親しみを持つ20代前後の女性層に受け入れられ、そこからのソーシャルな広がりによって従来の壁を突破できたという、いくつもの状況と仕掛けの重なりによるものだと思えるからである。

戦略はコンテキストでなければならない。ゲーム業界の構図を見て思った。
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2006年12月18日

スポチャン道場新設におけるマーケティングをテーマに妄想してみる。

世にスポチャン道場は沢山あるわけで、開催場所を変えただけの、特色のない道場を作ったのでは面白くありません。面白くないだけではなく、そのような大半の道場は実際、思うように生徒を集められず苦心していることからも、マーケティングが重要であることは明らかです。

意識するせざるに関わらずマーケティング的に成功している例で思いつくのは、友心館です。ママさんネットワークの強力な口コミパワーを捉えたバイラルマーケティングの成功例と言っても良いと思います。(もちろん、そのネットワークを活かすため奔走されたに違いない館長さんの力があればこそですが。)

特に、実績ある道場の支部開設と違って、全くのゼロから新しく道場を開く事を考えたとき、マーケティングはより一層重要でしょう。一人で出来ることは限られていますから、参加者の力も利用して浸透を図るバイラルな手法は一考の価値があります。

また、元来武術は相手が居るからこそお互いに練習できるわけで、今や道場は、参加者が切磋琢磨するためのシステムとしての Dojo 2.0 に自己変革すべき時期なのです。というわけで(ヤメロッテ

Project Dojo 2.0


ターゲット − ママさん達に匹敵する口コミネットワークを持つ「女・子・高・生」♪

道場名もちょっとカワユクして「綺☆舞羅!!」(カワユイノカ?

広報は、中高生に人気らしいメル友募集サイト「ふみコミュ」とか、こういうところで募集してみたりすると良い気がする。(マテ。

じゃ、このターゲットに合わせて訴求戦略を考えるべし。>読者宿題


#勿論ネタです。
ラベル:スポチャン
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2006年12月05日

武術に考える基礎力と実戦力(3)

念のため注意!
これは私のフィーリングや考えを纏めるために書いている記事であって、私程度の若輩者が書く物ですから戯れ言であると疑って読むのが正しい姿勢とすら言えます。私はその前提で書いていますから、いかなる否定・示唆・忠告あるいは同意も拒絶しません。トラックバック・コメント歓迎です。

私が最初にスポチャンについて師事した先生は、自ら進んで型を教える事はしない人でした。「型は自分でやりたくなったらその時にやればいい」と仰っていました。

現在師事している先生は、「型なんて練習しても試合で使えない」という初級者の声に同意はしつつ、しかし「そうでもちゃんと意義はあるのだよ」と仰います。

お二人の立場は違えど、その根っこは共通しています。「自分で意義を理解できるようになるまで待てば良し」とするか「そのうち理解できるようになるから、今やっておいて損はない」とするかの違いだけであり、型に意義があるという点に違いは無いようです。

何故“型”が必要か。何のために練習するのか。実際に役に立つのか。

この質問を発する人に納得のゆく答えを返すのは簡単ではなく、故にか、「役に立とうが立つまいが先人の技を敬い鍛錬すること自体が武道だ」などという非論理的精神論を持ち出す人もいたりします。しかし指導者がそうであった場合は悲惨です。意味も効能もわからないまま黙々と同じ事の繰り返し稽古を強要される事は、少なくとも私にとっては苦痛でしかありません。ですから型を練習させるのであれば、少なくとも、その意義は後々見出せるという光明を与えることは指導者として必要だと思います。

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ところで私は生粋の理系脳。他者の言をそのまま受け入れられるようには出来ておらず、論理的に納得できない限り同調出来ない人間です。“型”の意義についても自分なりに考えてみましたので、ここに書いてみます。

さて、先の記事で書いたように基礎力を身体・精神・戦略の要素と考えた場合、“型”は戦略的要素に該当します。

戦略立案の為には何より客観的な分析が必要です。敵を知り己を知って初めて有効な戦略を立てることができます。これは武術に於ける型でも同じ。相手と自分双方の肉体と精神の性質や因果関係についてより深く理解しなければ、戦略を立てることも、逆に他者の練った戦略の意味を理解することもできません。ということは、達人が練った型を、我々のような若輩者が容易く理解できなくても、それは無理もない事なのです。

また戦略は一定の状況に於ける行動の指針として有効ですが、実際の世界はもっと流動的で複雑です。全て戦略策定時の想定通りに事が運ぶことなど滅多にありません。

では戦略を学ぶことが無意味かというと、そうでもない。いや、学んだ戦略をそのまま使おうとするのは現実的に無意味かもしれません。だがそうではなく、他者の戦略を分析して、その戦略策定の根拠、考え方を学ぶ事により、自らの状況に応じ戦略を立てる力を付けることができる、という点で意味があると思うのです。

(例えばGEやソニーの事業戦略を学んでも貴方の会社では使えませんが、その戦略策定の考え方を学べば応用できるでしょう、という事。)

ですから、武術の型を学ぶ際にも、その型を忠実に再現できるようになることは最初の一歩であって、その上で成り立ち、根拠を考える事こそが肝要なんじゃないかなあ、というのが今の私の考えです。

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なかなか題名の方向へ近づかないなぁ。(^^;)
続く、のか?
posted by kamicup at 00:30| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月01日

武術に考える基礎力と実戦力(2)

順番が逆になってしまいましたが、この連載記事(に限らないのだけど)についての注意!
これは私のフィーリングや考えを纏めるために書いている記事であって、私程度の若輩者が書く物ですから戯れ言であると疑って読むのが正しい姿勢とすら言えます。私はその前提で書いていますから、いかなる否定・示唆・忠告あるいは同意も拒絶しません。トラックバック・コメント歓迎です。

さて、スポちゃん氏をピクピク♪させてしまったようなので、ちょっと脱線して“無心”についての考えを書いてみようと思います。

私は、公式試合でも時折入賞できるようになった頃に「頭で考える前に身体が勝手に動く」体験をし始めました。目から入った情報が脳を経由せずに直接脊髄へ流れ、それが身体を衝き動かす感覚。これは、身体的鍛錬を積めば自然に得られる条件反射です。

条件反射はもちろん有用ではありますが、生理的反射であるが故に意識的制御が効かないという弱点にもなります。相手の動きに無条件に反応してしまうため、巧みなフェイントには容易に引っかかるようになるわけです。

そして、条件反射が身について最初の頃、試合中一瞬何が起こったのかわからない、どうやって勝ったのか覚えていないという、それまでに無かった体験をしました。肝心の瞬間の状況認識に空白ができるのです。これは恐らく、自身の身体が動いた後に遅れて脳が視覚情報を処理し始めるため、脳への入力情報の時系列のズレが生じ、脳が混乱したためだろうと思われます。しかしそれを何度か繰り返すうちに、脳内ではこれに対応する神経回路が構築されて、混乱は解消されてゆきます。

そうすると、自分の身体が起こしている条件反射と視覚情報が並行した状況として同時に認識されるようになり、客観的・第三者的な自己認識を体験するようになります。幽体離脱的な感覚と言っても良い気がします。そして、この感覚のまま全神経が研ぎ澄まされると、自身と相手の間に連続的関連性を感じる状態になります。これが現時点で私が“無心”と捉えているの状態です。ここに至れば、フェイントに掛かっても、続く変化に追従し続けることができます。(道場の館長に「フェイントには騙されても良い。しかし最後まで騙され続けろ。」と言われたことがありますが、同じ意味かもしれません。)

ただし私の経験上、この速度域での神経系統の信号伝達速度は、その時の精神状態にかなり大きく左右されます。つまり、余程の精神安定性がなければ、このような臨界状態を保つことはできません。そしてもちろん、勝負の最中に精神安定を保つことは容易ではありません。これが、無心に至るため精神的鍛錬が必要たる所以です。

もちろん私は試合中常にこんな状態で居られる訳はなく、極限まで集中力の高まっているときでさえ、本当にごく偶にこのモードに突入していたと思える瞬間がある、という程度のモノです。ただ、その感覚を得た試合に限っては、相当に格上の相手であっても滅多に負けたことがありません。目下の処、どうすれば試合時に俺的無心モードを作り出せるか、が私のテーマです。

とはいえ、あくまで今の私が「これが無心か」と思っているだけであって、またまたこれも本当の無心ではない、と思う日がそのうちやって来るのかもしれません。(^^;

次回、型の話に続く。(多分。)
posted by kamicup at 12:55| 兵庫 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月29日

武術に考える基礎力と実戦力(1)

実戦力.GIF武術をやっていると付きまとうのが、鍛錬しているのに弱くなるという事態です。練習量が一定でも、実戦力(この文脈において“実力”とは違う)はそれに比例せず、伸びる局面もあれば下がる時期もあります。グラフにするなら、左図のような感じになります。何らかの武術をやっている人達にヒアリングしてみると、上下動の傾きに差こそあれ、ほぼ皆が同じ傾向を語ります。

鍛錬の中には、肉体的要素、精神的要素、戦略的要素があります。武術を始めて最初の頃(グラフでは左側の時期)には、より肉体的な鍛錬が必要ですが、段階が進むに従って、より精神的・戦略的な鍛錬が功を奏するようになります。つまり実戦力とは、段階に応じたこれら基礎力の積み合わせ(=積み重ね×組み合わせ)と考える事ができます。

ちなみに精神的な鍛錬と言うと難しく聞こえるかもしれませんが、例えば初期の段階なら、道場だけで練習していても試合では勝てない、試合で場数を踏めば勝てるようになる、一度入賞すると勝ち癖がつく、というような所謂単純な“自信”もそうであると考えると分かり易いでしょう。(段間が進むに従って“無心”の会得、そしておそらくそのずっと先には“悟り”などがあるのでしょうが、これらはその段階に達した本人にしか真意が解らないものだと思います。私はせいぜい無心が少し解ったかもしれない、という程度のもの。)

続きます。(多分。)
posted by kamicup at 12:40| 兵庫 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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